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アドラー心理学

アドラー心理学

 

アドラーの生い立ち。

 

弟のルドルフはジフテリアで一歳の時になくなる。ジフテリアは現代でもかかると10パーセントの確率でなくなる病気であり、ワクチンにより治療が可能。このころアドラー自身もくる病(ビタミンD不足による骨軟化、それにより太ももの骨でもO字に曲がるほど)にかかっていた。また、5歳の頃、肺炎にかかったことがアドラーを医者になることへ決心させた。

 

3大心理学者として、「ジグムントフロイト」「ユング」「アドラー」が挙げられるが、この中ではよく、フロイトの弟子がアドラーと言われるようであるが、実際はアドラーフロイトは対立している。フロイトの夢判断を見たアドラーは、その頃からフロイトに興味を持ち、精神医学に興味を持つようになった。その頃盛んに行われていたフロイトによる「研究グループ」はのちの「ウィーン精神分析学会」へと発展し、アドラーは会長も務めることになった。

 

フロイトは研究や学問としての「心理学」を好んでいたが、アドラー自身は「実践」や「診療」を中心とした心理療法へと関心を持っていた。

 

フロイトの元をさったアドラーは自由心理分析学会を設立するが、のちに「個人心理学」へと名前を変更する。これは「精神と身体」「感情と理性」のように人間を分割する「二元論」に対して作られた名前である。「個人心理学」つまり、人間は分割できないという考え方からくる名前。

 

軍医として、戦争へ出兵した人間の精神状態を維持し、再び戦場へ復帰できるようにすることを目的とされ、アドラーは戦場へ向かうことになるが、そこでの経験はアドラーにとっても辛いものであった。

 

専門家を相手とした心理学ではなく、一般の人へと向けられたアドラーの心理学は「カフェ」「レストラン」どこでも行われていた。

 

アドラーの教育目標。

 

①自立すること

②社会と調和して暮らせるようになること。

 

心理面の目標では

 

①私には能力がある

②人々は私の仲間である

 

という目標を提示している。

 

アドラーの考え方。

原因を探るのではなくて、「どこへ向かっているか」を考える。

 

教育の現場で「問題児」と呼ばれる生徒は「家庭が原因」で問題を起こしているのが一番の目的ではない。いちばんの目的は「問題行動を起こすことによって、何を訴えているのか」を考えることである。「気持ちをわかってほしいのかもしれない」し「問題行動によって自分自身の存在に気づいてほしい」のかもしれない。このような子に適切な行動を取ってもらうには「不適切な行動」に対して注目をし叱責をするのではなく、「適切な行動」に目を向けるべき。この時注意したいのは「褒める」という行為である。褒めるという行為は「能力のないものに与える、能力のあるものからの評価」であるからである。自分の方ができるという縦の関係を暗黙のうちに伝えることになっているのである。問題行動をとるというのは「普通である勇気」が足りていないからである。勇気が足りないことの方が問題である。問題行動を起こせば安直な優越性が得られるそれは一時的な優位であるから、次の日には再び問題行動を起こさなくてはならない。普通の人間になるためにはやはり周りの人間の協力が必要になる。その子に対して「普通の部分」に目を向けることが大事である。「今のままでいいこと」「普通の状態でいいこと」それを伝えていかなくてはいけない。その役目を負うのはまず僕だと思う。

アドラー自身もこう言っている。誰かが始めるのを待つのではなく「あなた自身が始めるべきであると」誰かの助けもなくとも、損をしてでも自分自身が始めなくてはならない。問題行動を起こしている子は「あなたの前で問題行動を起こしているからである。」「他の誰でもなくあなたに訴えているのである」だからこそ私が応じなければならないのである。

 

 

教育の本当の機能は、誰かを真似することではなく、いつの時も自分自身でいることなのである。

仲間を認め仲間と調和し、仲間に貢献すること。仲間への関心へ目を向けることを失敗すると、母親との関係へこもってしまう人間となってしまう。

みんなにとっていいことなのか、悪いことなのか、考えられること、自分がどう貢献できるのかを考えられることは健康的なパーソナリティであり幸福である音の条件である。

 

 

一般的な人生の意味はなく、意味を決めるのは自分自身である。自分自身が与えるものである。

人生のタスクである「友好」「愛」「仕事」回避するのではなく立ち向かう勇気を養うことが必要。

 

 

ーげんきー