げんきのブログ

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評価経済社会2

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 1:アンドリューウール

「一旦成長期を過ぎてしまったら、農民の子でも職人の子でも優秀な工場労働者に仕立てるのは不可能である。若者を、あらかじめ産業制度ように育てられればあとの仕込みの手間が大幅に省ける。」

すなわち公共教育こそ産業社会には不可欠である。

 

アルビントフラー「工場での労働を想定して、公共教育は基礎的な読み書きと算数と歴史を少しずつ教えた。だがこれは、いわば『表のカリキュラムだ』その裏にははるかに大切な裏のカリキュラムが隠されている。その内容は3つ。いまでも産業主導の国では守られている。

1;時間を守ること

2;命令に従順なこと

3;反復作業を嫌がらないこと。

この三つが流れ作業を前提とした工場労働者に求められている資質だ。」

 

義務教育の目的として最も大切なことは実はこんな目的があったのです。

最も大切なことは知識の習得ではなく集団生活を学ぶことだ、とはよく言われるが、集団生活を学ぶというのは実は工場で機械的な集団作業をこなすための練習だったのです。つまり、作業員養成特別システムです。

 

 

→こんなことが本当であってもそれはそれでいい。でも、今現代、こう言った養成施設は、働き方の違いが生じているからいらないのかもしれない。時間を守れる人、約束を守れる人というのは周りの人にとっては便利と思われたり、優秀な人だと感じられることは確かにあるが、本人が本当に幸せかどうかはわからない。その人が無理して約束を守っていたり時間を守っているのであればそれは本当の意味では幸せとは言えないような。ただ、幸せの定義が人次第であると考えてしまえばそれはそれである、、、。

 

 

 

 

 

2:

知識、指導者にすがるというのは「自分は知らないからこの人に任せよう」

という他者依存のことである。

当時の神父さんは現代に置き換えると池上彰である。

 

→自分自身が知識を持っていないからと言って「専門家」「有識者」に責任をなすりつけていいわけではない。ましてやそれに対して文句を言うといのはご法度なのではないだろうか。政治家に対して「フザケンナ」とか言うのは簡単に言える。「じゃああなたがやりなさい」そう言われたら批判者は言い返すことは難しいのではないだろうか。「それを言ったら政治家として失格?」政治家は鬱憤を晴らすための道具ではない。「文句を言うこと自体ナンセンス」自分自身でどうにかするしかない、のかもしれない。

 

 

3:働いているのは「こき使われているだけ。」

 

私たちは別の形の大人になろうとしているだけ。

少しくらい貧乏でもいい。

将来の保障がなくとも構わない。

最低限食べるお金があればよく、

意に沿わない仕事について多額のお金をもらうのをよしとしない。

自分を豊かにするために時間を使いたい。

 

→今現在の仕事に対する価値観というのは当時のような「お金」があれば良いというものではなくなっている。多少金銭が少なくても自分のやりたいことを行い、自分自身の成長のために働くそんな「青春」のような仕事を若者は求めているのかもしれない。今現代を作ってきた仕事人たちのことは確かに尊敬はしているが、でも沙汰に時代はかわりつつある。結局いつの時代の経験者も結局は「結果」を語っているに過ぎずどの時代にも通用する考え方というのは存在しないのである。腹をくくって今の自分自身を受け入れていくのがある意味一番幸せな選択肢のではないだろうか。