学問のすすめ 福沢諭吉 抜粋
「人に貴賎はないが、勉強したかしないかの差は大きい」
これは「天は人の上に人を作らず」という言葉の元の言葉であるが
意味は勉強に限らず、人間関係、スポーツにも当てはまる言葉だ。
やるかやらないかの世界で生きているというのを実感させてくれる。
勉強はしなくとも生きては生きる。
相手を貶めるのではなく、
自分自身が成長していけという教訓もここから学べる。
→2019年1月8日
勉強しなくても中学校を卒業することはできるし、
高校も大学もそれなりにいくことはできる。
でも、その生徒、学生である三年間、四年間でどのくらい勉強するかによって、
その後の人生が変わるといっても過言ではないのかもしれない。
学校の勉強は確かに必要ないのかもしれないが、それでも勉強をするには
人の信頼だったらり、大学を卒業したという証になるのかもしれない。
でも、そんなもの本質的に必要だろうか。
「勉強が必要ない」というあなたはもしかしたら、
「知識労働」には向いていないのかもしれない。
「自分自身に対する責任」とは。
無知蒙昧な人間は「恥」を知らないが故に
自分の無知を反省することができない。
知識がないがゆえに金持ちを恨む。
自分の国の法律で守られながら、
自分に不利な場合は平気で法律を破り、
他人が法を破ると法律違反だと豪語する。
国に報いようという精神を持っているのであれば
日本の将来に不安や悩みを持つ必要などなく、
「国を自分自身で守ること」に集中するであろう。
むしろ、国を守ろうとすることにより一種の「国の保有」が心の中に芽生え、
国の将来は自分自身で握ることができる。のである。
そのためには一人一人が自分の行いを正し学問を行い知識をひろめ、
才能と人格を磨くことが何よりも大切なのである。
→2019年1月8日
自分自身が不利な場合はルール違反だといって猛反発する。
これはなんか耳が痛い言葉。
自分の都合良いように生きているのかもしれない。
「人間みんな、都合いいもんでしょ」という人もいるかもしれない。
僕も実際「そんなもん」と思っている。
ダメダメですわ。
独立の精神がない人間は、
人を愛する力も国を愛する力も浅くいい加減である。
独立とは自分自身で物事の始末をつけ、
他人を頼る心がないことを言う。
他人の考えに影響されず、
自分で物事の正誤を見極め、
間違いを起こさない人間のことを、「独立人」と呼ぶ。
経済的に他の援助を必要としない人を「経済的独立人」と呼ぶ。
しかしものの道理がわかっているものなど少ししかいないのだから、
知識のあるものが政治を行い従わせれば良いのである。
いちいち政策の内容を説明する必要はないのである。
現在の安倍政権も
「情報を明かさない法律」を採択したが
実際はこのような意味があると僕は考える。
我々は現場にはいない存在なのである。
国会は国民の代表が集まっているとともに
国民は主権を持っていると言うのはいわば「形式」である。
これは「形式」のままでよく、国を動かすのは
実質「国会議員」だけで良いのである。
その理由は前述の福沢諭吉の言葉にもある通り。
→
経済学には「パレートの法則」という「2:8」の比率が存在する。
これは全体の利益のうち、20%の商品がその売り上げを支えているというもの。
つまり、議員が100人いたら、そのうち20人が国を動かす有効な人間である
ということに言い換えられる。
我々の意見を反映させるというのが国会の本質だけど、
実際「一票」という投票でしか意見を表明する機会はないし、
「議員内閣制」という「間接的な国民」しか国会にはいない。
今現在はまだ、
国と我々の間の差が広すぎる気がする。
なんか、政治って複雑だな。
ちなみに福沢諭吉は「素晴らしい人」って言われてるけど、
しっかりこの人について学んだ人からするとそんなことなくて、
「結構クズ」なところもあるとのこと。
げんき。