ゲンキのブログ

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アドラー 心理学 メモ

哲学とは愛知学であり、哲学を愛する人は愛知者なのである。

歩みを止めて途中で飛び降りることを宗教といい、永遠に歩み続けることである。

もし、全てを知り尽くしてしまったらそれは哲学の終わりである。

 

教育とは介入ではなく、「自立へ向けた援助であることを。

 

尊敬とはありのままにその人のことを見ること。まずは子供に対して尊敬の念を抱くことから始めるべき。役割として教える側としての人間であるから、教えられる立場である子供たちのことを敬わなければならない。

 

その人をその人らしく成長発展していけるように気遣うことでもある。

それが尊敬という意味。

尊敬することは勇気づけの原点にもなりうるものであるから、できるようになることが人間関係を気づく上での基本となる。

 

その尊敬の最初の一歩を踏み出すのは誰でもなく我々自身なのである。

 

 

我々は過去の事柄に縛られて生きているのではなく、過去の事実をどのように意味付けているか、過去にどのような意味を与えて生きているかによって自らの性を決定しているのである。今を肯定するために、不幸だった過去お肯定すること。

 

人間は今の目的にあった事柄だけを選択し、意味づけを施し、自らの記憶としている、今の目的に反する過去は忘れているのである。今生きている自分自信が過去を決定している考えるのである。悪いあの人とかわいそうな私。これからどうするか。それが大事である。カウンセリングの際にも使われるこの方法は日常でも使えそうである。話すことがないところには話をしない。

 

 

問題行動の原点とは。

一つめは「称賛の欲求」であり、「褒められることを目的とし、共同体の中で特権的な地位を占めることが目的なのである。」彼らはいいことをしているのではなく、褒められることをしているだけに過ぎない。誰からも褒められないのであれば、特別視しないのであればその行動はしなくなってしまうのである。

二つ目は注意喚起。いいことをしたのに褒められない場合は、褒められなくてもいいからとにかく目立ってやろうという考えが芽生える。この時の子供たちは、悪くあることではなく、目立つことがいちばんのもくてき担っている。

問題行動の三つ目は「権力争い」である。不従順であることによって自分の力を証明したいという安価な優越性を手に入れたいだけである。

四段階目は復讐である。ただひたすらあいての嫌がる王を繰り返すことによって復習を考えることもある。ストーカーなどもこの一環に含まれる。自傷行為なども、復讐の一環であり、このようになってしまったのはお前のせいだと訴えている。

 

問題行動の五段階目は「無能の証明」である。

あらゆる課題から逃げ回り、周囲に対してはこれだけ無能だから課題を与えないでくれ、自分には解決する能力がないのである。と表明し始める。最初からできるはずがないと諦めてしまう方が楽であるから。自分自信が無能であることを証明すると、自分自身もいつの間にか、自分はバカだからというようになってしまう。

 

自分自身の理性を使うことを恐れないこと。つまり、他社の指示を仰いで生きいくなということ。人間他人からの指示があった方が生きていくのは楽ではあるが、それでは能力を使えていないことになる。精神的に未成年である人は、理性が働いていない人が多いのである。

 

自分自身の価値を自分自身で決めることを自立と捉えること。普通であることの勇気を持つことによって、ありのままでいることができる。人と違うことに身を置くのではなく、自分自身であることに焦点を当てること。

 

他者を救うことによって自分自身が救われようとすることをメサイヤコンプレックスと呼び、一種の心的な倒錯である。

 

信用とは条件付きので信じることであり、信頼とは無条件で相手を信じることである。人間の価値はどのような職業についたかではなく、その職業に対してどのように取り組むかで評価される。もちろん仕事に対する能力の評価はあるが、別問題としてこの人と一緒に働きたいか、この人が困った時に助けたいかというきじゅんがあり、これは「その人が仕事に取り組む誠実さや、取り組む姿勢によって決められる。

 

他社のことを信頼できるかどうかは、他社のことを尊敬できるかどうかにかかっている。

 

仲間に恵まれないのは仲間を作ろうとしていないだけ。つまり、対人関係に踏み出そうとしていないだけなのである。何が与えられたかではなく対人関係においても、与えら得たものをどう使うかが問題となってくる。たとえその人が嘘をついていたとしても、嘘をついているその人ごと信じてしまうということ。本当の信頼とは能動的な働きかけのことである。

信じてくれるから信じるのではなく、先に相手のことを信じることが大切。我々は自分のことを信じてくれる人の言葉しか信じることはできない。あなたが私のことを信じようと信じまいと、私はあなたのことを信じる。信じ続けることが無条件の本当の意味である。自分を信じることができなければ、他者を信じることはできない。自分を愛することができなければ他人を愛することができない。言い換えると、他人を信じること、他人を愛することは自分自身を信じていること、愛していることにつながるのである。ありのままの自分を受け入れる音ができず、絶え間なき不安にさらされているからこそ、自分自身にしか関心が向かないのである。

我々は分かり合えない存在であるからこそ信じるしかない。

 

なんでもない日々が試練であり、今この瞬間に決断を求められている。

 

愛とは純粋かつ自然的な機能ではない。

石の力によって何もないところから築き上げるものだから愛のタスクは困難なのである。

 

他者から愛されるよりも他者を愛すること、愛する技術を身に付けること。

愛によって自分自身から解放されなくてはいけなく、愛こそが自分自身からの解放なのである。

 

愛するという行為を恐れている人はたくさんいて、相手の心にも愛が生まれるだろうという希望全部の面に希望を委ねることである。相手が自分のことをどう思っているかに関わらず相手のことをただ愛する。愛に身をゲルということなのである。

我々は他者を愛するということで飲み自分自身を解放することができ、自立をすることができる。他者を愛することによってのみ共同体感覚にたどり着くのである。最良の別れに向けた努力をしていくべきなのである。

 

 

 

自分自身が置かれている環境が特別だから、自分自身が他の人とは違ってしまうっていうのはうぬぼれからくるんだろうなあ。普通を知ってる人ってあんまりいないよな。

 

自分自身を信じることができないから、他者を信じることができず、交友の関係に踏み出すことができない。