ゲンキのブログ

書評とか経済とか、あと日常とか

これからの正義の話をしよう マイケル・サンデル

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 多くの住宅が台風で崩壊し、物資が行き届かなくなった場合、残っている商品を高値で売りつけるのはいけないことなのだろうか。経済学的には「需要が高まっていること」が「値段を上げるということにつながっているのであるが、しかし、道徳的には良いとは言えないようである。これは実際にハリケーンの起こったメキシコで起こった事件である。物資を高値で売る場合、購入できるのは資本を多く持っている人間に限られるため、平等という観点からは避難を浴びるに違いない。けれど、完全な平等を求めていくことも良いとは言い難い。

 社会主義なんかはその良い例ではないだろうか。国民全員の平等を守るために、生産物の画一化を図ったことにより他人との差異がなくなり個性や自分らしさの違いを求める人が反発し始めた。その後資本主義に発展していくのであるが、資本主義は、貧富の差を生み出すという問題点は確かに存在する。存在するが、言い換えると頑張った人間は多くの富を得ることができ、ある程度の富で良いと考える人間にとってはそこそこの仕事を選ぶことのできる仕組みになているので理にかなっているのである。ある意味自由な制度が資本主義である。言い換えるとたくさんの富を得られずに不平不満を言っている人間は努力が足りないのであり、自分自身が優れていると感じている人が多いのではないだろうか。そもそも、富を目的にことを進めていくこと正しいかどうかということも考えなくてはいけない。

 富を求めることを目標にしていくと、どうしても「道徳」の観点を忘れてしまい人間として失敗してしまうのではないかという懸念がある。筋トレをしすぎて筋肉むきむきになりたくないという人がいるが実際はそんなことはない。ボディービルダーなどのようになるためには、並大抵のトレーニングではあの体を作ることができないから、思っているよりもたくさんの筋トレをしていいのである。この感覚に拝金主義の考え方を当てはめると、「富を求めすぎることは、求めすぎるくらいがちょうど良いのである」となる。自分が本気を出せば多くの富を手に入れることが簡単にできると思う人がいるが、そんなことはないはずである。現在資産家などと言われる人たちはきっと我々とは比べ物にならないくらいの努力をしているはずだし、色々な困難も経験しているはずである。そのような人が拝金主義だったかどうかはわからないが、少なくとも我々よりかは努力を重ねているのではないだろうか。頭の中で努力をするのではなく、スポーツのように実際の場面で努力をできるようにしていくことが大事である。

 

 

 

本を読み進めるとこんな言葉に出会った。

「満足な豚でいるよりも不満足な人間である方がよく、満足した愚か者であるよりかは不満足なソクラテスでいる方が良い。」ここで挙げられているのはどちらもマイナスの要素を持った存在であり、何が言いたいかというと、「良質な満足感よりも、質の悪い満足感に浸ることがときには最大の満足である」ということを言い表している。最大多数の最大幸福を述べたジェレミベンサムであるが、彼の考え方とは全く別の対局する考え方である。ジョンスチュアートミルの考え方の方が人間らしいさをうまく表している感じがして個人的に好きなフレーズだ。

 

 

累進課税制度について。

多くの富を持つものが少ない富を持つもののために多くの税金を払うべきという制度は一見正しいように見えるが、せっかく多くの富を持てるように頑張ってきたのに、課税で多くの資産を奪われてしまうのはいささかおかしな話ではないだろうか。持っていない人から、税金を巻き上げることは確かに無理な話ではあるけれど、納得のいかない話である。

 

 

 

ジャン=ジャック・ルソー「真に自由な国では、義務を免除してもらうために金銭を払うことを拒むどころか、義務を自ら果たすために金銭を払うだろう、自由と対立するのは強制労働ではなく税金である。」強制されるよりも義務を果たすことのできないことの方が人として隅に置けないという意味である。日本における義務とは「教育」「納税」「勤労」である。これらは強制ではなく人間として行うべきこととして位置している。これらの義務を果たすために我々は金銭を払ってまでも果たそうとする心持ちがあるだろうか。金銭を

払って教育をする、教育を受けるのは理解できる。金銭を払って仕事をする、(仕事を与える?)というのもなんとなくわかる。だが、金銭を払ってまで納税をするというのは、トートロジーのように感じる。だから、ルソーも、「自由と対立するのは税金である」と言っているのだろう。「お金を払う行為に加えて、仕事をする」というのが仕事の義務である。「お金を払うことに加え、教育を受ける、受けさせる」。しかし、「お金を払うことにより完結する」のが納税の義務であるから、明らかにそのほかの義務と雰囲気が違うのであることもわかる。これは自由というよりかは、強制に近いのかもしれない。ジャン=ジャック・ルソーの考え方で日本の3大義務を捉えると、「強制労働よりも不自由な納税の義務が加わっている」ということになる。いったいどこで使われているかもわかりにくいため一層猜疑心の湧く納税である。

 

 

 

 

 野球選手としてのべいぶるーすは劇作家としてのシェークスピアよりも優れているだろうか。という問いは無意味である。この言葉からわかるのは比べることの無意味さである。野球選手と野球選手を比べることには意味があるのかもしれないが、それぞれ得意分野で戦えばいいということではないだろうか。個性や能力をうまく生かす社会が現在では推奨されている雰囲気を感じる。

 では、そもそも個性や能力とはなんだろうか。きっと、生まれ持った得意分野とか、「自然発生的に上手くなっているもの」なんていう風に思う人がほとんどであると思うが、自分自身そういうものを本当の能力とは呼びたくない。能力なんていうものは意図的に身につけて行くものであり、故意的に計画的に身につけるべきものでもあると考える。そもそも、自分の得意分野で頑張れば良いという考え方からは、「楽しよう」という気持ちが見えてしまい、見栄え的にも人間的にも向上心が見られない。むしろ、「嫌いなことを好きな人と同じくらい上手くやる」くらいの心持ちがある人の方が成長できるし、結果もついてくるのではないだろうか。

 個性や能力なんていうものは生まれ持った才能ではなくて「図って身に付けるもの」という意識をもって生きていきたい。