げんきのブログ

YoutuBlog書いてます「youtube」×「blog」

「常識とか、お金とか、あと人生とか」  上京物語 喜多川 泰

常識、ルール。

 

自分自身が考えている常識は意外と自分自身の中のマイルールになっていることが多々ある。さらに、常識には「強迫性」があるから「破ってはいけない」とかいう「協調圧力」も持っているのは皆が経験していること。「みんなが持っている常識だから守らなくてはいけない」ので「守らない奴は、そんなこともできない」という根拠のない「侮蔑」。また、根拠にならない「みんな」という理由。「数の暴力」とも言える。きっと常識を武器に生きている人は選択を迫られた際に「どっちの方が票が多く入るか」という基準で「自分自身の選択をしている」のかもしれない。みんなが行くから私も行く、みんなが行くから大学に行く、就職する。自分自身もそんな多数派を選ぶ人間であったのでとても納得のいく話。「自分自身の価値観」という「周り」とはズレているかもしれない価値を基準にして動くことができていなかったのがその原因だろう。むしろ自分自身の価値観と一般と言われている価値観が合致することなどほとんど少ないのではないだろうか。それなのに「常識」の統一というような人生観が小学校、中学校では教育させられていたように感じる。周りと異なる人間に対しては「当たり前のことを当たり前のようにできるようにしなさい」と教える大人と子供の関係。他人と違うことによって起こる友達と友達同士における「異質性の排除」という名の「いじめ」「(いじり?)」が起こる。つまり、「大人から子供へ」そして「子供同士」でも常識に当てはまらない人間を「修正」「矯正」「教育」しているのが今の生きづらさを生んでいるのかもしれない。

 常識の中にある価値観として「みんなが平等で公平」というのがある。一見聞こえはよく「人間として」必要なことかもしれない。しかし、公平などは謳い文句で実際に実現できている集団があるかと言われれば、ただの一方通行であることが多い。「公平の押し付け。」「ベッドからはみ出た手足は切り取る」という比喩表現はどこのモチーフだったかは忘れたが、「鋳型にはめ込むような公平」さという印象を持ってしまう。

 

 

「常識はずれ」だからおかしい、

「ルールから外れている」からおかしい、というのは見当はずれな意見。

 

常識とかルールは大事だけれど、そこを足踏みとして使いさらに「高次の常識」つまり「常識はずれ(良い方向へ)」になっていければ良い。